ドキュメンタリー映画「牧師といのちの崖」絶賛上映中!

更新日:2018年3月31日

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ドキュメンタリー映画

「牧師といのちの崖


その崖の上は、毎日が生きる闘いでした。


風光明媚な観光名所、三段壁。

美しい断崖は、自殺の名所としても知られていた。

人生に絶望した自殺志願者と、共に暮らす牧師。

彼らの日々が問いかける“生きる意味”とは?


【公開時期】

3/23(土)~4/5(金) 16:50
4/6(土)~12(金) 21:00
4/13(土)~26(金) 19:00
4/27以降上映未定
ポレポレ東中野


3/30(土)〜4/12(金)大阪 シネ・ヌーヴォ

(3/30(土)〜4/5(金)10:50~/4/6(土)~4/12(金)10:40~)

4/6(土)〜4/19(金)名古屋シネマテーク 10:40

4/13(土)〜4/19(金) 京都シネマ 9:20~ 

4/15(月)、4/18(木) 福岡KBCシネマ 2日間限定上映

バリアフリー上映
4/18(木)~4/30(火)シネマ・チュプキ・タバタ 10:30~
東京・田端にある劇場です。音声ガイド付き字幕ありのバリアフリー上映


【映画概要】

“生きがいがない”“ずっと孤独を感じて生きてきた”―

悲痛な想いで、観光名所・三段壁を訪れる自殺志願者たちの姿。

和歌山県白浜町にある観光名所・三段壁で、いのちの電話を運営しているのが牧師・藤藪庸一。映画は自殺志願者たちを死の淵から救い、生活再建を目指して共同生活をおくるという独自の取り組みに密着した。藤藪は、人生に絶望してやってきた自殺志願者の声に耳を傾ける。借金や人間関係のトラブル、精神的な病など様々な問題を抱え、帰る場所のない人々に教会を開放し、

共に暮らしながら、生きていく方法を探していく。


日本の自殺者数は年間2万1321人(2017年)。1日あたり60人近い方が亡くなっている計算になる。厚生労働省の「自殺対策白書」では、15歳〜39歳の各年代の死因の第一位が自殺となっており、大きな社会問題になっている。

牧師・藤藪が地道に続ける「いのちの電話」が自殺を思いとどまらせる最後の砦として存在している。


何度失敗しても、帰ってこられる場所として。


藤藪は共同生活の場を提供するだけでなく、弁当配達も行う食堂も運営している。そこは、ひとり孤独にやってきた人々が、経験のない調理を学び、同じような経験を持つ仲間と共に、もう一度人生を取り戻したいと働いている。藤藪と彼らの対話から見えてくるのは日本の様々な問題だ。若者たちの低い生への肯定感、コミュニケーション不全、希薄な人間関係‥。

“何度でも帰ってこられる場所になるといい‥”そう語る藤藪に共感し、中には受洗する者もいるという。そう考える藤藪。ただ、その場所は決して甘えるだけの場所ではない。親以上に厳しく、現実と向き合うことを求められることもある。心優しくも厳しい牧師と自殺未遂を経験した仲間たちの共同生活には、お互いに支え合う人々の物語があった。自殺問題の水際を見つめたドキュメンタリーは、社会に、そしてあなたに、何を訴えかけるのだろうか?


STAFF

監督・撮影・編集:加瀬澤充

プロデューサー:煙草谷有希子

音響:菊池信之 音響助手:近藤崇生

宣伝協力:細谷隆広 宣伝デザイン:成瀬慧 

製作・配給・宣伝:ドキュメンタリージャパン、加瀬澤充

助成:文化庁文化芸術振興費補助金(映画創造活動支援事業)

   独立行政法人 日本芸術文化振興会

2018年/100分/カラー/英題:A Step Forward

URL:www.bokushitogake.com


【監督紹介】加瀬澤充(かせざわ あつし)

大学卒業後、園舎と園庭のない幼稚園のドキュメンタリー映画「あおぞら」を制作。2002年に制作会社ドキュメンタリージャパンに参加。「オンリーワン」(NHK BS-1)「森人」(BS日本テレビ)「疾走!神楽男子」(NHK BSプレミアム)など数々のドキュメンタリー番組を演出する。

【監督の言葉】

この映画は、僕が師事したドキュメンタリー作家・佐藤真監督が自ら命を絶ってしまったことから始まった。「阿賀に生きる」「SELF AND OTHERS」「阿賀の記憶」など数多くの優れた作品を作り出し、実作に基く優れたドキュメンタリー評論でも有名な彼は、僕にとっては何より先生だった。


佐藤さんは1999年に開講された映画美学校のドキュメンタリーコースの主任講師となり、当時、新進気鋭だった是枝裕和や諏訪敦彦、森達也らを講師に迎え、これまでにないドキュメンタリーの新しい映像表現を探求する実験場を作ろうとしていた。

テレビ番組制作会社に入社して1年目で、ADとして膨大な雑務をこなす毎日に疲れていた僕は、この学校に飛びついた。佐藤さんが教えてくれる世界のドキュメンタリーを鑑賞しては、作品に対する批評について教わり、やがてそれぞれが撮影してきた素材を持ち寄っては議論をし、作品作りを目指していった。とにかく面白かった。

激しい議論をした授業の後、佐藤さんはよく飲みに連れて行ってくれた。ほろ酔い加減の佐藤さんは、人生に迷う若者たちの声に本当に熱心に耳を傾け、鋭い意見で僕たちを批評し、最後はいつもへべれけだった。映画美学校を卒業した後も、撮影の現場にスタッフとして連れていってもらったりしながら、たくさんの酒を飲み、ドキュメンタリーについてたくさんのことを教わった僕は、いつも佐藤さんの背中を追いかけていたような気がする。


その後、テレビのドキュメンタリーの仕事をするようになり、佐藤さんとはあまり会わなくなったけれど、演出をする上で迷った時は必ず佐藤さんの本を読んだ。「日常という名の鏡」は一体何回読んだかわからないほど、赤線だらけで、今でも良く読み直す。彼は僕のドキュメンタリーを考える上での大きな指針なのだと思う。


佐藤さんが亡くなったのは、2007年の9月だ。何年も会っていなかったのに、その数ヶ月前にたまたま、電車で一緒になった。「加瀬澤君、どうですか?頑張ってますか?」と聞かれ、たわいもない話をした記憶がある。その時、佐藤さんと話した感じとか、顔の表情とか、なんだか今でもその状況が不意に蘇ることがある。


佐藤さんが亡くなったと友人から連絡をもらった時、涙がとまらなくなった。じっとしていられなくなって、ひたすら歩いた。その夜は雨がしとしとと降っていて、濡れながら歩き続けて、自分がどうしたのかよく覚えていない。

その時から、心に引っかかる何かがある。何かしなくちゃ、無性にそう思って、自殺について調べるようになり、この取材が始まった。僕はこの作品を作ることで佐藤さんと会話したかったのかもしれないな、と今は考えている。


ずっと、佐藤さんに自信を持って見てもらえる作品を作りたいと思っていた。この作品を作っている時、心の中にずっと佐藤さんがいたような気がする。ニコニコ笑いながら、でも目の奥に鋭い光を忍ばせた作家の佐藤真さんが、僕に聞いてくる。

「加瀬澤くん、どうですか?」

逆に聞き返してみたい。その答えは、僕は今も探しているからだ。





【コメント】

生と死を分ける言葉を探し続けるということ

文筆家・隣町珈琲店主 平川克美


誰でも、人生で一度は死にたいと思うような場面に遭遇することはあるだろう。ただ、ほとんどの場合、それは実行されず、時の経過とともにその思いは薄れるか、何故死にたいと思ったのかすら忘れてしまうだろう。

日本では、毎年二万数千人が自殺している。これが、とんでもなく多いのか、あるいは総人口に比べれば大したことがないのか、わたしにはよく分からない。

映画の中で、自殺志願者だったひとりが、かつて死に場所として選んだ三段壁に座って、その時の気持ちを回想するシーンがある。

真っ青な空には雲が湧き、眼下には海の波が岩に砕かれている。この美しい自然が、かれには狂暴な光景に見えている。

そのまま落下すれば、確実に死ぬことになるだろう。しかし、その時は何かがかれを押しとどめ、「いのちの電話」のプッシュボタンを押していた。「助けてください」と言う言葉以外には何も言うことができなかった。

「助けてください」。この言葉の深さに釣り合う救済の言葉はあるのか。

何故、ひとは死にたいと思うのか。死にたい理由は山ほどあるが、生きていく理由を見つけるのは難しい。いや、生きていく理由が欲しいと思うときに、死はかれのすぐ近くまで忍び寄ってきているのかもしれない。

 動物は自ら死のうとは思わない。生かされている間は、黙々と生き続けるだろう。哺乳類の中で人間だけが自殺する。おそらくそれは、人間が言葉を持った生きものだからだ。言葉は意識であり意識はいつも他者を必要としている。他者とは自分を投影する何かである。だから意識は、ほとんど孤独に耐えることができない。孤独を知ってしまった人間にとっては、ただ生きていくというだけのことが、とても難しいのだ。

 「いのちの電話」を受け取った牧師は、これまで何人もの自殺志願者を救済してきた。おそらくそれは、普通考えるよりも大変なことだろう。サリンジャーの小説『キャッチャー イン ザ ライ』(ライ麦畑でつかまえて)は、多くの若者の共感を呼んだ青春小説である。この日本語のタイトルは素敵だが、意味はオリジナルとはちょっと違っている。本当は「つかまえて」は、「捕まえ手」であり、離人症気味の主人公が唯一なりたいのは、崖から落ちそうになる子供を救済する捕手なのだと述懐するところから生まれたタイトルである。

 牧師の日々の葛藤を見ていて、わたしは、牧師はキャッチャーなんだなと思う。このキャッチャーは、悩みながらいつも言葉を探している。絶対的な孤独を知ってしまった人間の心に届く言葉はなかなか見つからない。だから、牧師は日々悪戦苦闘している。

サリンジャーの小説では、キャッチャーになりたいのはむしろ自殺志願者の方であった。ここに、この問題の難しさが存在している。

 何故、「いのちの電話」をかけた若者は、キャッチャーではなく自殺志願者になってしまったのか。自殺志願者の幾人かは自立してゆく過程で、他の志願者の相談役になっていく。自殺志願者がキャッチャーになったとき、かれはすでに自立している。

キャッチャーになるとは何を意味するのだろうか。それは、自分を必要としている人間がいることを自覚するということにほかなるまい。

 しかし、ひとは何を契機に、どんな言葉によって、自分が必要とされていることを知り、キャッチャーになるのか。その道筋は誰にも分からない。この映画にもその答えはない。

人生に答えがないように、この教会の中にも、映画の中にも、容易な答えはないのだ。意表を突くエンディングが示しているのは、わたしたちが、絶対的な孤独を癒す言葉を探し続ける旅の途中を生きていると言うことだけである。


森達也さん  映画監督、作家

命が動く。命が笑う。命が沈黙する。ある程度は手を差し伸べることができる。でもある程度だ。

観ながら悩む。苦しくなる。でも目を離せない。


安田菜津紀さん フォトジャーナリスト

この映画を観ながら、何度はっとさせられたことだろう。これまで自ら命を絶った、身近な人々の顔が次々と浮かんだからだ。あの怯えながらも優しい瞳はあの人に似ている、意地を張りながら自分を守ろうとする態度はあの人に、と。

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